大陸から伝来した大刀は、環頭大刀(反りのない直刀は「大刀」と書き、「たち」と読む)と呼ばれ、大刀の頭に環が取り付けられていたようです。この様式は中国の漢の時代に生まれましたが、その環は刀身と共鉄で頭(柄の頭)の部分をぐるりと丸く輪にしているようです。それが頭の部分を別の金属、例えば銅などで作るようになると、環内に龍などを彫り出して装飾を施したとされています。この龍の図は、大刀を直立して見られるようになっています。 六世紀、わが国で生まれた頭椎大刀は、ややおぼつかないのですが、二つの足金物で腰帯から吊るし、真横に侃くようにできています。次いで方頭大刀にはしっかりとした足金物が付き、常時横に侃いていたと考えられます。古墳時代後期に生まれた方頭・横侃きの様式は、それ以来、現代まで継承されました。日本刀誕生の源流は古墳時代にある可能性があります。 平安時代以降、馬上にあって太刀を真横に侃いて疾走する武将の姿がよく絵巻物などに描かれています。また江戸時代、黒紋付に羽織の後ろを、刀の鞘が角のように突き出た姿は問指しといい、格式ある武家であることを示していたようです。一方、刀のこじりを下に落として腰に指す落し指しもありました。 体に対して真横に侃く習慣は、日本独特のようです。刀剣を縦に身に添わせて縦に吊るす用法は、明治時代の陸海軍のサーベルを想像していただければ納得いくことと思います。西洋では、サーベルのように一つの留め金で帯から吊るし、鞘は足の腺近くまで下がり、刀身を上からストンと落としこむスタイルだったと言われています。 刀剣を縦に侃くか、横に侃くかでは、刀剣に付属する装具にも、刀身の長さにも影響を与えます。まず、古代、十把剣の長さは、一把は握り拳一つ分で約十センチ、十把の長さは一メートルとなります。刃の長さ一メートルというのは大変長い大刀です。長い大刀を身に着けるのは、上級武将の誉れであり、また戦うときは相対する武士より長い大刀が有利だったと考えられます。
さて、刃の長い大刀の抜き差しには、直刀より少し湾曲した形のほうがより利便性が高いといえるでしょう。まず九世紀に蕨手刀や毛抜形蕨手刀、そして毛抜形茎の大刀の柄に曲がりが生まれます。奈良時代の律令体制下においては、大刀の様式が決められ、その様式によって各地に注文が出されましたが、平安時代に入り律令体制が崩れていくと、各地で様式にとらわれない自由な形が生まれたと言われています。 刀を前方へ押して刺すという方式より、手前に引き斬るという方式が民族的習性に適っていたといえるでしょう。鋸も錨も押す作用の西洋と異なり、手前に引く作用に適った日本刀の反りは合理的だったといえましょう。 鎌倉時代後期、正宗や正宗の師匠である新藤五国光などの短刀は、無反りの七~八寸(ほぼ二十数センチ)の刃長ですが、これらの短刀にスケールを当てると、中ほどが三厘(一ミリ)くらい反り、鋒が三厘(一ミリ)ほど内側(刃側)に反っています。けれども垂直に立てると、直線(無反り)に見えるのです。鎌倉末期から南北朝にかけて、短刀の反りは微妙に変わり、棟の線が直線になってきます。すると、その姿は内側に反って見えるのです。 このような太刀の姿を映そうとして、和紙に押形をとってみても同じにはいきません。現代の刀工たちも、古名刀を写そうとして、押形や木型・金型などをつくり、それをあてがって太刀を作りますが一見同様に見えますが、全体の感じはどうしても同じ反りではないそうです。 直線にわずかな反りが隠されているように、曲線にも微妙な感覚が隠されているのかもしれません。平安時代、紀貫之が書いた仮名の曲線を真似しても、似ても似つかないということになります。