兼定は代々、美濃国関を中心に活躍した刀工であった。しかし、4代関兼定が、会津蘆名氏の求めに応じ会津に移住し、会津兼定として会津を本拠地とした。11代兼定は、本名を古川清右衛門といい、父、業蔵から作刀を学んだ。安政7年頃から「兼元」銘で作刀を始めた。幕末の文久3年、会津藩主松平容保が京都守護職の拝命により上洛、会津公お抱え刀工であった兼定も同道した。「和泉守」の官位を朝廷より受領し、以後「和泉守兼定」の刀銘を称した。二尺三寸一分六厘の「和泉守兼定」は、新撰組副長土方歳三の愛刀であったのは有名だろう。歳三佩刀の表には「和泉守兼定」の銘が、裏には「慶応三年二月日」の銘が刻まれている。戊辰の役箱館戦争において土方歳三が戦死を遂げたのは、明治2年5月11日。その間、二年あまりでしかないが、刀身、拵えに残る数々の傷が、土方歳三という男の壮絶な生き様を彷彿とさせる。