豊臣秀吉によって行われた刀狩り 刀狩りといえば武蔵坊弁慶でしょう。弁慶は六歳のとき癌癒を患って色が黒くなり、比叡山西塔の桜本の憎正に預けられますが、度々乱行を働き放逐されます。その後、諸国修行に出ますが乱行は相変わらずで、京に出て、千本の太刀を奪う悲願を立てます。あと一本というとき、五条の天神で義経に出会うことになります。 さて、時代は移り、天正十六年(一五八八)七月、豊臣秀吉は全国に刀狩りの号令を発したと言われています。
それによりますと、
一、諸国百姓、かた・な、わきさし、ゆみ、やり、てつはう、其外武具のたぐい所持候事、堅御停止候。其子細は入ざる道具をあひたくはへ、年貢所当を難渋せしめ、自然一撲を企て、給人にたいし非儀の働きをなすゃから、勿論御成敗有るベし。然れば其所の田畑不作せしめ、知行ついえになり候の問、其国主、給人、代官として、右武具悉くあつめ、進上致すべき事。
一、右取をかるべき刀、わきさし、ついえにさせらるるべき儀にあらず候の問、今度大仏御建立の釘かすがひに仰せつけらるるべし。然れば、今生の儀は申すに及ぼず、来世までも百姓たすかる儀に候事。
一、百姓は農具さへもち、耕作専に仕候へぼ、子々孫々まで長久に候。百姓御あはれみをもって、此の如く仰せ出され候。誠に国土安全刀民快楽の基也。異国にては唐辛売のそのかみ、天下を鎮撫せしめ、宝剣利刀を農器にもちいると也。本朝にてはためしあるべからず。此旨を守り、各其趣を存知し、百姓は農桑を精に入べき事。 右道具急度取集め、進上あるべく候也。 天正十六年七月日 秀吉(朱印)