日本刀を記録するには、文字によってその特色を表現するほかに、刀身の全形、説い銘、刃文などを「押形」という絵にして写し取る方法があります。現在、一般には押形は刀身の上に薄い和紙を置いて、上から石華墨で擦り写します。この方法が開発される以前は、フリーハンドにより墨などで書き写していました。『銘尽』には、茎の形が描かれていますが、何度か写し替えて、元の形とはかなり変わってしまったものと考えられます。 天文十六年(一五四七)の奥書がある『往昔抄』には、五百四十七工、八百四十口の刀の茎の押形が掲載されています。これは神戸三河守直滋が書写したものだそうです。その原本は、奥書によりますと、美濃の斎藤利安が蒐集した膨大な刀の茎の図と注記を、息子利匡が重要である茎を選び一巻としたもので、これはまさに九牛の一毛であるとのことです。期聞は永正八年(一五一一)の夏ころから、永正十三年(一五二ハ)の秋までを要したとのこと。この書は同家の子孫一人のほか、外見を許さずとも記されています。 一例を挙げますと、江戸時代に最も普及した「古今銘尽』には、正宗十哲の一人である名工の義弘は「ごうのよしひろ」と呼ばれ、「ごうと化け物は見たことがない」などと、その珍重振りが喧伝されていました。なぜ「江」を「ごう」と呼ぶかというと、越中国松倉郷に往み、松倉郷を略して「郷」とし、「郷」の文字を草書体で「江」と書いたので、「ごう」というのだとか。しかし、『往昔抄』には、義弘の茎に「江」と書き「え」とルビがふられ、その横に「江右馬允」と添え書きされており、本間順治博士はこれにより、「ごう」を「え」と訂正されたのです。 一方で日本刀鑑賞の普及は、写真技術の発展にあずかるところが大きいのです。