「足・葉」がなぜできるかは、鋼に含まれる炭素が不均一であり、また刃中が均一の温度で焼き入れきれず、したがって……
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日本刀の反りは日本独特の造形美を感じさせます。日本刀の曲線がいつごろ生まれたのかについては、いろいろな説がありますが、
ま大陸から伝来した大刀は、環頭大刀(反りのない直刀は「大刀」と書き、「たち」と読む)と呼ばれ、大刀の頭に環が取り付けられていたようです。
「足・葉」がなぜできるかは、鋼に含まれる炭素が不均一であり、また刃中が均一の温度で焼き入れきれず、したがって均一にマルテンサイトにならず、いわばマルテンサイトとトルスタイト(いずれも鋼の組織の一円J) の混合体になっているのだそうです。マルテンサイトの方が、硬度が高いので、丹念に研磨すれば、わずかにマルテンサイトが突起し、光に反射して光るのです。新刀に足・葉が少ないのは、地鉄が良質となり、均一化した故といえるでしょう。 働きの中に「金筋・稲妻・砂流・地景」という言葉があります。前三者は刃中に、「地景」は地肌に現れます。なぜ、このような働きが生じるかは、地鉄が不均一だからだと考えられます。古刀には、これらの働きが自然に入ります。江戸初期の名工の繁慶は、則重に匹敵する刀を作ろうとして鉄に工夫を施し、人為的に古鉄などを混ぜて地文を作りました。人為的ですので、自然にできたものと異なって、極端に地文が強調されています。稲妻や砂流も長くなり易いのだと思います。 「映り」は鉄の色です。地文には関係なく現れます。賞賛を浴びるのは、備前刀に観る丁子映りです。あたかも丁子刃文の陰のように観えるのもあるようです。この乱れ映りは、山城の来国俊や備中の青江にもわずかにありますが、丁子映りであれば備前刀と観ることができます。現代でも極めて稀に丁子移りを出す刀工がいるようですので、近い将来は丁子映りが出せるようになる可能性があります。丁字映りのほかにもいろいろあって、沸映り、白け映り、地斑映りなどと呼ばれています。 このように観てきますと、「働き」とは刀工が鍛錬や焼入れを施すことにより、刃中や地肌の中に微妙な変化を生じさせたように観えることだと考えられます。
日本刀における曲線について 日本刀の反りは日本独特の造形美を感じさせます。日本刀の曲線がいつごろ生まれたのかについては、いろいろな説がありますが、資料から見ると、平安時代の初期(九世紀)にわずかにその萌芽が見られ、中期(十世紀から十一世紀)になると反りはかなり鮮明に表れ、完成したのは十二世紀であると考えられています。 十一世紀の初めごろに成立したと伝えられる『新猿楽記』には、京都の町に住む鍛治に金集百成という名工がいて、彼は右馬寮の史生であり、その作刀は「鍔寒水のごとく、その形は茅の葉の様」であると書かれているとされています。焼き入れた刃は寒水のように冴え、形は茅の葉のような曲線をしている、すなわち反りがあることを示しています。鍔は、現在は鐸と同意語に用いていますが、本来はやいば(焼刃)のことで、平安時代は文字を正しく用いているのです。「茅葉の様」は、日本の秋の風情を表わしているとされ、風になびく茅・葦・薄・萩は優しい曲線です。 日本刀の太刀の源流は、大陸から伝来した直刀であるとされていることは広く知られています。その直刀に反りが生じて日本刀に転じました。ではどうして、反りができたのか。 九世紀から十一世紀までの問、色々な反りがありましたが、十二世紀になると、ほとんど全国的に一様の反りの太刀が作られるようになったとされています。刃の長さも反りの深さも、ほぽ同じです。十二世紀の代表的太刀を挙げると、次のようになります。
• 京都の三条宗近の名物三日月宗近は刃長二尺六寸四分(七十九・九センチ)反り八分八厘(二・七センチ)
• 備前の名工友成の太刀(厳島神社)は刃長二尺六寸二分(七十九・三センチ)反り一寸二厘(三・一センチ)
• 伯香の名工安網の名物童子切安綱は刃長二尺六寸四分(七十九・九センチ)反り八分九厘(二・七センチ)
• 豊後の名工行平の太刀(永青文庫)は刃長二尺六寸四分(七十九・九センチ)反り九分八厘(二・九センチ)
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日本刀の魅力はどこにあるのだろう? 日本刀の魅力をその歴史と共に学んでいきましょう!
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